1873年12月大院君は失脚し王妃の一族閔氏が政権を握り、朝鮮国内でも通商開化を説く意見が登場した。明治政府は1874年6月から交渉を再開するがやはり紛糾したため、軍艦数隻を朝鮮沿岸に派遣し海路を測量させて示威を行い交渉を有利に進めることとし、1875年軍艦雲揚、第二丁卯を派遣した。この雲揚が同年9月20日首都漢城に近い要塞地帯であった江華島に接近し、発砲されたとの理由で3日間にわたり戦闘し22日には永宗島の砲台を攻撃、占領する事件が起きた。[8](詳しくは江華島事件また日朝修好条規参照)
明治政府は12月に黒田清隆を特命全権大使に任命し軍艦3隻などの艦隊をともなって朝鮮に派遣し(砲艦外交)、その結果1876年2月日朝修好条規が調印された。これは首都への公使駐在と釜山の他二港の開港と日本人の居留通商などを認めさせたが、第一条で「朝鮮は自主の邦にして、日本国と平等の権利を保有せり」とうたいながらも第十条で片務的領事裁判権を規定する不平等条約であり、さらに第七条では日本が朝鮮沿岸の測量権を得て軍艦の周航など軍事的進出を容易にすることとなった。[9]
なお「自主の邦」と規定したとはいえ、清は冊封関係において従来から「属国自主」として内政・外交については関与しない立場をとっており、清の宗主権を否定しつくすものでもなかった。ちなみに1882年の朝清商民水陸貿易章程では清の宗主権が明文化されている。
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1879年明治政府はいわゆる琉球処分を行い琉球藩を沖縄県とし、琉球王尚泰の東京移住を命じるが、琉球内ではそれを不服とし明治政府に様々な嘆願を行い、また清に救援を求める人々もあった。清は冊封関係の回復にむけ積極的になり日清の関係は悪化し、世界巡遊中の前合衆国大統領ユリシーズ・グラントが明治天皇との会見で西欧列強の介入を防ぐための日清両国の譲歩を助言したこともあり、1880年北京で日清の交渉が行われた。
この時日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とし、日清修好条規に日本の欧米並みの最恵国待遇を追加する案(分島改約案)を提示し一旦はまとまる。しかし清は元来二島の領有を望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還し琉球王国再興を求めており、分島にたいする琉球人の反対もあり、清は提案受け入れの態度を変えて調印に至らなかった。[10] この琉球問題の決裂と日本の台湾への野心の疑いから清側ではこの後対日強硬論が唱えられるに至る[11]。この結果、領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後まで持ち越されることになった。